■プロフィール
名前:佐々木芳邦
• 中国金融研究会 会長
• 在日中国人ビジネスマンの会 会長
• 元北京大学日本校友会会長
• 1973 北京大学東方言語学部日本語学科入学
• 1976 北京大学東方言語学部日本語学科卒業
• 1976 内蒙古自治区科学技術情報研究所入社
• 1978 南開大学日本語教育室へ転職講師に
• 1980 日本へ留学日米会話学院他にて勉強
• 1981 上智大学経済学部経営学科入学
• 1985 上智大学経済学部経営学科卒業
• 1985 野村證券株式会社中国室入社
• 1988 グループ会社野村・中国投資株式会社へ出向
• 2010 野村・中国投資株式会社を退職
• 2010 ホテルオークラ事業本部へ就職
• 2020 ホテルオークラ管理本部退職
• 2021 TEN法律事務所顧問就任
野村証券に就職ー市場経済の教科書を初めて見た瞬間
━━━佐々木先生は野村証券に就職されました。最初に一番印象に残ったものは何でしょうか?
①謙虚なリーダーシップ:野村証券の社長がお客様に腰を下げお辞儀
佐々木先生:野村證券に入社した直後、野村証券の大規模な講演会がありました。その際、高級ホテルの大ホールの入り口で、野村証券の社長が自ら入場するお客様一人ひとりに大きく頭を下げ、お辞儀をされていました。
私はこれを見て驚きました。中国では、小さな工場長でさえお客様に対して威張っていたからです。日本の大手証券会社の社長は、日本の国会議員と同じくらい高い地位にあります。あるいは、国会議員よりも地位が高いとも言えます。
これこそが市場経済の本質が表れていた瞬間でした。どれだけ偉くても、お客様はもっと尊いと示してくれたのです。日本企業に就職してまもない私は、非常にショックを受けました。
それ以後、私は自分が主催する忘年会や懇親会などでも、終了時入り口で立ち挨拶をするようにしました。来てくださるお客様には感謝の気持ちを忘れずに。お客様がいなければ、イベントは開催できませんから。お客様第一、感謝の気持ちが大切だと痛感しました。
②真面目で几帳面さに驚かされる
佐々木先生:お客様に配る資料ですが、一字でも間違いを発見したら、全てを破棄し、修正して再度印刷して配布しました。お客様には二流のイメージを絶対に与えないとの考え方でした。これはまさに一流企業のやり方だなと、非常に勉強になりました。
野村証券での貢献と成果
━━━野村証券での主な貢献を教えていただけますか?
佐々木先生:定年退職するまで、ガーデンホテル上海と北京発展大厦(ビル)の二つのプロジェクトに野村証券側の通訳としてずっと携わってきました。特に北京の「北京発展ビル」については、中国対外経済合作部に初訪問の時から合弁会社ができるまで、また董事会も初回から最後の定年まで、すべて私が通訳を担当しました。
━━━合弁会社設立からオフィス建設への道とは?どのような経緯があったのでしょうか?
佐々木先生:一緒にオフィスビルを建設することは非常に大変で複雑で、多くの難題がある大きな挑戦でした。中国にとっては外資の導入であり、野村証券としては中国の対外解放政策への協力でした。お客様に中国進出を呼びかける際に、自分たちが中国進出の手本を作ることでもありました。
━━━商習慣の違いとは?具体的にどのようなものがありましたか?
佐々木先生:1985年に一つの事例を経験しました。一年の商談を経て、ついに1986年に契約が成立しました。これは、お客様に直接呼びかけるよりも、より効果的だという結論に至ったからです。
日本の商習慣では、契約が成立するまでに、フィジビリティ・スタディを行います。つまり、事業の可能性を調査し、採算性や収支予測をする試算を行います。このプロセスは新規事業などのプロジェクトにおいて、資産を投入する前の重要な段階です。
中国側では、当時この試算に強く反対されました。その当時、中国側からはビジネスの本質が理解されておらず、試算の重要性が認識されていませんでした。そこで、野村中国投資の社長の了解を得て、私は単独で夕食会を開き、野村証券の意図や協力の意味、そして手本の役割について詳しく説明しました。もしも赤字になった場合、お客様の手本にならないため、黒字になるプロジェクトにする必要があると伝えました。この説明を理解した中国側はやっと納得。その後の商談は順調に進み、成功に結びつきました。
━━━ガーデンホテル上海でのエピソードがあれば教えていただけませんか?
佐々木先生:上海政府が外資系ホテルに対して営業収入の3%を課す「旅遊発展付加費」に反発し、私は直接国務院の関連部門に訴えました。最終的には「乱収費」と認定され、この制度は廃止されました。その結果、多くの外資系ホテルから感謝の言葉をいただきました。
北京発展大厦は「長城杯金質賞」、「1990年度建設工事魯班賞」を受賞される
━━━中外合弁企業として初の黒字経営の快挙
佐々木先生:実は、この案件は北京で初めて、中外合弁企業のプロジェクトとして工期内かつ予算内に竣工できたものです。成功の秘訣は、野村証券が金融機関であり、時間を厳格に守る企業であったから。時間の損失を許さない優れた企業でした。
北京市長は「北京発展ビルが中外合弁企業契約のモデルである」と賞賛しました。契約交渉の段階では様々な意見で対立しましたが、一度契約が成立すれば争いはなくなり、中日双方一流を追求する共通の認識が成功に繋がる基盤となりました。
━━━「長城杯金質賞」、「1990年度建設工事魯班賞」受賞について
佐々木先生:北京発展大厦は1987年4月に着工し、1990年4月11日に正式に開業。北京市で最も早く建設された国際的なインテリジェント・オフィスビルの一つとなりました。
開業以来、首開と日本企業の合弁企業である「北京発展ビル有限公司」によって運営され、日中双方が協力し、風雪に耐えてきた日中友好の象徴として、またビジネスのモデルとして北京の中心に堂々と佇んでいます。
このビルの建設プロジェクトは1989年に北京市の優れたプロジェクトに贈られる「長城杯金質賞」や、国家建設部の「1990年度建設工事魯班賞」を受賞しました。
まとめ
佐々木先生は、野村証券グループにてキャリアを築き、最終的には野村中国投資株式会社次長にまで昇進しました。2010年には野村証券での定年退職を迎え、その後はホテルオークラでの勤務に転じました。
一流企業で培った企業理念と品質は、時を経てもなお価値を増し、企業、社会、そして日中のビジネスに真の貢献を果たし、その高貴な存在は今なお輝き続けています。
社会活動やホテルオークラでのお話は、次回続けてお伺いしたいと思いますので、ぜひご期待ください。
【ご参考記事】
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■ライタープロフィール
名前:姜春姫(きょう・しゅんき)女性
「医・職・住」ラボでは、グローバルな視点で、日本と中国との高齢者が直面する医・職・住の問題を提起し、特に日本に住んでいる外国人の問題を提起する。
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