70歳を過ぎても、毎年写真展、ランニング、山登りを続けている土肥哲英さん。かつて中国へ教師として赴任した経験をお持ちとのことで、再度土肥先生にインタビューをしました。土肥先生がグローバルな視野をもち、いつどのように海外で活躍してきたか、そしてその魅力についてご紹介します。
シニア世代がグローバルな視野で活躍することに興味のある方は、ぜひご一読ください。
■プロフィール
名前:土肥哲英(男性) 1945年生まれ、75歳。
神奈川県立の高等学校で国語を教える。2年間ほど中国天津にある名門校・南開大学で日本語を教えた。
その後神奈川県の高校に戻り、60歳で定年退職し現在に至る。
日本語教師として、神奈川県から中国・天津の南開大学に赴任
━━━土肥先生は日本語教師として海外に行ったことがあると聞きましたが、それはいつ頃のことですか。
土肥先生:日本語教師の三代目として、神奈川県から1983年4月から1985年3月まで、中国・天津の南開大学に派遣されました。
当時中国の情報が少ないなかでの赴任、不安でいっぱい
━━━当時、中国へ行く前の心境を教えてください。
土肥先生:赴任するにあたっては、事前説明会や研修会が開かれたが、外国での日本語教育に漠然とした不安感は払拭できず、前任者に具体的な問題点等を尋ねたりもしました。そして、日本での国語教育とは異なる指導方法が必要であるらしいという予想はついたものの、実際の場面に直面して自分なりに対処していかなければならないという結論に達しました。
中国は物が少ない時代だったため、荷造りに苦労
━━━当時、お互いの国についての情報が少ないなか、荷物の用意はどうしましたか?
土肥先生:必要な資料等の選定や購入に頭を悩ませ、整理や梱包に苦労しながらも出発の日は近づいてきました。多くの荷物は船便で発送したが、それでも直前に用意した必要品はかなりの量になりました。トランク一個、背中にはリュックサック、両手にはラジオカセットデッキと空港免税店で購入したウイスキー、これが出発当日の私の姿でした。成田空港では他大学に派遣される人たち4名を含め、全員が重量オーバー。その支払いを巡って1時間以上も交渉を続けました。
いよいよ北京に到着
━━━初めて中国に着いた時の状況を教えてください。
土肥先生:1983年3月末の夜、北京空港に降り立たちました。各大学から出迎えの人が来ており、大学で用意したそれぞれのタクシーに乗せられ、ネオン灯の続く通りをひたすら走りました。道路は雨で濡れており、両側の柳はわずかに芽吹き始めていました。つい数時間前の成田空港での重量超過料金交渉に伴う不快な思いは消えたものの、これから同行したメンバーと切り離されてどうなるかという不安な思いに駆り立てられました。やがて車は大きな建物の一角に停まり、そして一つの部屋に案内されました。一人になって不安はますます募るばかりでした。
友誼賓館で宿泊
━━━友誼賓館はどんなところですか?
土肥先生:外国人専用のホテルでした。車に揺られているときは分からなかったが、我々のために大学ごとにタクシーや部屋を手配してくれていたのです。しばらくして広い食堂に案内され、先ほど別れた仲間と深夜の食事会が始まりました。お互いに安どし、食事も早々に遅い眠りに就きました。
北京観光
━━━北京での滞在はいかがでしたか?
土肥先生:2~3日北京に滞在し、万里の長城などの観光地巡りをしました。専家局の張氏が中心となり、各大学から派遣された通訳の人達が我々の案内人でした。初めて目にした長城や故宮等の建造物の大きさに驚嘆すると同時に、中国華北の大自然と日本のそれとの違いを実感しました。
歓迎歓送宴会
━━━歓迎歓送宴会はいかがでしたか?
土肥先生:北京滞在中に専家局の主催による歓迎茶話会が催され、中国の日本語教育に寄せる期待を改めて受け止めました。我々が各大学に分散しなければならないという前日、「全聚徳」北京ダック料理店で別れの宴を開き、それぞれ健闘を誓い合いました。
北京で数日間中国を体験した後、次の日は派遣先の教育現場に向かいます。希望と不安が交差する心境だったでしょうが、どうぞ次回も体験談を聞かせてください。土肥先生ありがとうございました。
■ライタープロフィール
名前:姜春姫(きょう・しゅんき)女性
中国天津市南開大学卒業。早稲田大学を経て東京学芸大学教育学部修士課程修了。大学卒業後、中日の通訳翻訳や語学講師を務めた後1990年に来日。グローバル「医・職・住」ラボでは、グローバルな視点で、日本と中国との高齢者が直面する医・職・住の問題を提起し、特に日本に住んでいる外国人の問題を提起する。
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