日本の多様な文化や魅力的な観光地は他国の人を魅了し、年々インバウンド観光客の数は増加しています。日本政府は外国人労働者の受け入れや留学生の増加を積極的に進めており、外国人の定住をサポートしています。
在日外国人の数は年々増加しており、それに伴い外国人の児童に対する日本語のサポートも必要となっています。筆者もその要望に応じるべく小学校に行くことがしばしばあります。
最近、小学校の中庭に二宮金次郎像があることに気づきました。この石像がある学校とない学校があったので、疑問に思い板橋区在住の元教師の方に質問しました。そこで今回は、日本の小学校でしばしば見かける二宮金次郎像についてご紹介します。
二宮金次郎とはどんな人物?なぜ石像が小学校の庭にあるの?
二宮金次郎とはどんな人物?なぜ小学校の庭に石像があるのですか?
筆者:なぜ二宮金次郎像は小学校にあるのでしょうか。彼はどんな人物なのでしょうか?
先生:二宮金次郎像はだんだん少なくなってきています。少し前に売りに出されたとニュースで見ました。その時の価格は2万円だったとか。小田原に「尊徳記念館」があります。とても展示されていて、展示のレベルは高いと思います。
日本の小学校に通ったことがある人なら二宮金次郎(二宮尊徳)のことは誰でも知っているでしょう。彼は江戸時代、小田原(神奈川県)近くの村で農民の子として生まれました。朝暗いうちから夜遅くまで、汗と泥にまみれて一生懸命に働きました。勉強が好きで、わずかな時間も無駄にせず勉強をしました。文字を学ぶ際には、箱に砂を入れてそこに棒で書いては消すを繰り返して勉強に励んだと伝えられています。
貧しかった金次郎ですが、荒れ地を耕して米を作り、余った米をお金に変え、お金が貯まると土地を買うことを繰り返し、23歳の若さで立派な地主となりました。金次郎は一生を世の中のために捧げ、大飢饉で困っていた関東や東北の多くの農村や藩のために働き、たくさんの人々を救いました。
二宮金次郎は、「一生懸命努力する」「働くことを惜しまない」など、日本人が大切にしている姿勢がある人。そのあり方や考え方は修身(現在の道徳)の教科書に多く取り上げられていました。1945年(昭和20年)以前に作られた学校には必ずと言ってよいほど二宮金次郎石像があり、現在でも残っています。
二宮金次郎像が小学校に置かれた理由は、国が金次郎の勤勉・倹約の精神を教育の象徴としたかったためと考えられています。
石像に込められたメッセージ
質問:神奈川県在住の先生にお尋ねします。二宮金次郎の石像はどんなシンボルですか?
先生:彼は幼い頃に労働しながら勉学に励んだ人(苦学の人)です。薪を背負って(=労働)本を読んでいる(=勉強)像で、子供たちの鏡のような存在として「小学校」に設置されています。勉強が大好き!という子供はいませんよね。つまり、「君たちも彼のようにしっかり勉強しなさい!」というメッセージなのです。
石像は中学校にもあるの?
質問:石像は中学校にもありますか?
先生:「二宮金次郎」の子供時代の話なので、小学校だけ(すべての小学校ではありません)に設置されていると思います。「二宮金次郎を見習って」という意味でしょう。中国の「向雷鋒学習」に似ていますね。
二宮金次郎の有名な少年時代に薪(たきぎ)を背負い歩きながら読書する姿は1891年(明治24年)刊行の『二宮尊徳翁』(幸田露伴著)に初めて挿絵として掲載されています。
1904年(明治37年)以降、修身の国定教科書に、少年期の金次郎(二宮尊徳)が模範的な少年として数多く登場するようになりました。それは、一生懸命勉強し、家庭の仕事を手伝い、より良い生活を目指す人間としての模範的な姿でした。これにより、昭和に入ってから全国の学校の校庭に少年時代の二宮金次郎像が次々に建てられるようになりました(昭和20年まで)。
二宮金次郎像を作る会社と高さについて
ある先生の調べによると、二宮金次郎銅像を作る会社を突き止めたのですが、銅器の街、富山県高岡市でついに二宮金次郎像を作る「平和合金」(富山県高岡市戸出栄町56-1)という会社を見つけ、「平和合金」の会長から貴重なエピソードを聞くことができたそうです。
当時、日本では長さを測る単位が「尺」から「メートル」に変更されることになり、二宮金次郎像の高さを1メートルにしたそうです。
二宮金次郎の人となり・生き方について
二宮金次郎といえば少年時代の姿が代表的ですが、成長した後は家や村または領主の財政再建のアドバイザー、あるいは村の人々の努力を喚起し復興に導く指導者といった、様々な側面を持つ人物でした。その業績には現代に通じる問題を解決するヒントがちりばめられています。しかし残念なことに、その実像や生涯はあまり知られていません。
二宮尊徳先生は小田原市栢山の地に生まれ、生涯学ぶことを怠らず、一家の立て直しに始まり、多くの農村や藩政の復興事業にあたりました。
「報徳仕法」と呼ばれる独自の手法・考え方は、今なお大いに評価され、多くの方々によって実践されています。小田原市栢山で生まれた二宮金次郎は、その生涯で全国600以上の村々を復興させました。
二宮金次郎像が無くなった理由
全国で小学校の老朽化や学校立て直しが行われていますが、それに伴って二宮金次郎像の撤去が進んでいるそうです。 その理由は、「児童の教育方針にそぐわない」「子どもが働く姿を勧めることはできない」「戦時教育の名残という指摘」「歩いて本を読むのは危険」などの保護者からの声が挙げられます。(『毎日新聞』2012年1月25日発行分より)。
まとめ
二宮金次郎像は勤勉と親孝行の象徴として、小学校の教育現場で広く知られています。彼は農村の復興や財政再建のアドバイザーとして活躍しました。
二宮金次郎(尊徳)は、江戸時代後期に数多くの荒廃した農村を復興に導いた農政家であり、日本の協同組合運動の先駆けとされています。彼の報徳思想と報徳仕法は、多くの人々に影響を与えています。
時代によってとらえ方が違うことがありますが、二宮金次郎の生き方と業績は、現代においても大切なメッセージを伝えているでしょう。今回はとても良い勉強の機会を得ました。教えてくださった先生方に感謝いたします。
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■ライタープロフィール
名前:姜春姫(きょう・しゅんき)女性
「医・職・住」ラボでは、グローバルな視点で、日本と中国との高齢者が直面する医・職・住の問題を提起し、特に日本に住んでいる外国人の問題を提起する。
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