【日本に留学したきっかけは山口百恵】「女子十二楽坊日本プロデュ―サー揚琴奏者」鄭宇(てぃう)氏インタビュー

鄭宇(てぃう)女史は、7歳の時揚琴(ヤンチン)と出会い、それ以来揚琴に惚れ込んで一生懸命に練習を重ね、揚琴と共に音楽の世界に入りました。中国で成功した後は、揚琴をもって海を渡り、楽器と歌を通して日中の間の文化交流をし、音楽教育家として、日中民間交流使者として活発に活動を展開してきました。
本日は、その業績と共に、彼女の活動を支える原動力はなにか、直接インタビューをしてきました。どうぞ御覧ください。
※揚琴(ヤンチン)とは中国の「旧称“洋琴”」と称し、外来弦楽器であります。この楽器は中国生まれではなく、ペルシャによって、11世紀にヨーロッパへ伝わり、清の末期には中国に伝わった打楽器であります。

■プロフィール
名前:鄭宇(てぃう)(50代女性)
中国湖南省長沙市生まれ。揚琴Yang Qin「旧称“洋琴”」演奏者、7歳から習い、中国では数々の奨を受賞、湖南師範大学の芸術学部卒業後、長沙理工大学で音楽教師となる。
1990年3月来日、千葉大学大学院音楽教育学部を修了後、教鞭をとりながら、揚琴演奏活動を通して日中の架け橋となり、日中民間交流使者と称賛される。
現在華宇創意株式会社社長、(公社)日中友好協会顧問、日本NHK放送大学講師、国際儒学聯合会第6期理事、上海市対外文化交流協会海外理事等を務める。

【中国民族楽器】揚琴との出会い

揚琴を演奏する鄭宇(てぃう)氏

━━━鄭宇(てぃう)先生、揚琴はいつから習いましたか?
鄭宇先生:小さいころ兄が揚琴を習っていましたので、よくその傍で真似をしていましたが、その内揚琴が好きになって、7歳から本格的に学び始めました。15歳の時に高校もまだ卒業してなかったのですが、湖南師範大学の芸術学部から飛び級として特別入学許可証が届きました。湖南師範大学を卒業してからは、湖北芸術学院(現在武漢音楽学院)で民族音楽学を研修しました。その後は長沙理工大学で教鞭をとり音楽を教えました。

【中国第1回全国民族楽器競技大会で】揚琴パフォーマンス賞受賞

10代パフォーマンス賞を受賞した際の記念写真

━━━鄭宇(てぃう)先生は揚琴演奏において輝かしい経歴をお持ちですが、中国でのことを少しご紹介してください。
鄭宇先生:先ほども少し触れましたが、7歳から揚琴を習い始め、1982年に中国文化省が開催した第1回全国民族楽器競技では、高く評価され、パフォーマンス賞(表演奨)を受賞しました。

「女子十二楽坊日本プロデュ―サー】日本での音楽活動

2017年と2018年女子十二楽坊日本公演時の記念写真

━━━日本での音楽活動はどのように行いましたか?
鄭宇(てぃう)先生:1990年日本留学後は、1995年に千葉大学大学院音楽教育学部を修了し、千葉の中学校、高等学校で中国語を教えながら音楽活動を続けました。2011年東日本大震災の際には、“絆”というチャリティーコンサートを主催し、寄付金を震災地石巻市に届けました。コンサートの始まりは、2008年中国の四川汶川大地震の時でした。その際チャリティーコンサートを主催し、集めた寄付金は、中国大使館を通して震災地に届けました。2000年以来「東京旋律音楽会·鄭宇と仲間たち」を計10回大きなイベントーを開催、また2017年と2018年は「女子十二楽坊」日本プロデュ―サーとして日本公演を成功させ、日中音楽交流、日中文化交流において大きな反響を頂きました。

【135弦の弦楽器】揚琴について

中国民族楽器揚琴の写真

━━━揚琴(中国旧称“洋琴”)はどんな楽器ですか?中国ではいつから流行になったのですか?
鄭宇(てぃう)先生:揚琴Yang Qinは中国の「旧称“洋琴”」と称し、外来弦楽器であります。この楽器は中国生まれではなく、ペルシャによって、11世紀にヨーロッパへ伝わり、清の末期には中国に伝わった打楽器であります。ピアノと同じく、音量が宏大で、表現力が豊かであります。中国民間楽器演奏、民族楽器演奏では、主にピアノのような役割を果たします。

これは、ピアノと同様ボリュームが大きく、豊富なパフォーマンスさで、民族楽器演奏とピアノの伴奏の役割をした独特な演奏芸術です。揚琴は全部で135弦があり、音の調律も容易なことではありません。揚琴が中国に伝わってから、忽ち中国各地に伝わり、その地位も高くなりました。

音楽史学者の解釈によれば、この楽器は、中国文化の美の要素と非常によく統合されています。広東音楽アーティストの多くは、中国発の楽器よりも実際よく演奏され、特別なスタイルをもち発展されました。

【山口百恵さんに憧れ】日本留学

━━━日本に留学したきっかけは何ですか?

鄭宇(てぃう)先生:1990年日本留学をしましたが、その決め手の一つは、日本語には漢字が多く英語より優しいと思ったこと、もう一つは山口百恵さんのファンで、少しでも山口百恵さんに近いところへ行きたいと思いました。親の反対も大きかったのですが、それでも一人で日本にやってきました。

今も30年前成田空港に着いた時のことを忘れることはできません。成田を降りて気が付いたら、身の周りにはたった二つの荷物があっただけであることです。その荷物は旅行バック、もう一つは30キロもある揚琴でした。もっとショックを受けたのは、中国で受けた3か月の日本語特訓が、空港でまったく通じなかったことでした。30キロの揚琴の重さはもちろん、これから先のことで一瞬不安が襲い、肩には一気に重い重圧がのしかかりました。

 日本に憧れ、成田に着きましたが、これからはどのようにして新しく生活をいていくのでしょうか、1990年3月成田に着いてから、その後の30年間、鄭宇先生はまたどのように日本で奮闘したのでしょうか?この続きは、次回の記事をご覧ください。

■ライタープロフィール
名前:姜春姫(きょう・しゅんき)女性
「医・職・住」ラボでは、グローバルな視点で、日本と中国との高齢者が直面する医・職・住の問題を提起し、特に日本に住んでいる外国人の問題を提起する。
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