古代、中国人が初めて野生の茶の木を発見し、生の葉を噛み始めました。伝説によれば、茶樹の新鮮な葉を味わい、その魔法の解毒特性を最初に発見したのは神農氏だったと言われています。
漢代の医学書『神農本草経』には、「神農は数百の薬草の味と泉の甘さと苦さを味わい、人々は何を避けるべきかを知った。この時、毎日七十二の毒に遭遇し、それらは本格的に解決された」と記されています。
周の時代、春秋時代における茶の利用方法
周の時代、春秋時代には、茶葉を長期保存して生贄として使用するために、古代人は徐々に茶葉を乾燥させる方法を学びました。茶葉を天日で乾燥させ、水で煮出して飲むこの方法は長く続きました。晋時代の郭普は、古代辞書『爾雅』の注釈において、お茶は「煮出してスープにすることができる」と述べており、晋時代の人々がこの飲み方を採用していたことを示しています。
唐の時代
唐の時代(618~907年)になると、お茶を飲む習慣は全国に広がりました。このころのお茶は、蒸した茶葉を搗き固めて乾燥させた餅茶(へいちゃ)が主流でした。茶葉はすでに全国で栽培されていましたが、消費地への運搬には固形茶が便利だったと考えられます。
『茶経(ちゃきょう)』について
世界で最も古いお茶の本といわれている『茶経(ちゃきょう)』は、唐の時代に陸羽(りくう)によって記されました。『茶経』は、3巻10章から成り、お茶の起源、歴史、製造法、茶道具、淹れ方、飲み方、産地、心得にまで及びます。
その中には、餅茶の作り方や飲み方についても詳しく書かれており、摘んだ茶葉を蒸し、搗いて型に入れて成形し、日干し後、火で炙って乾燥して保存し、飲用する時はそれを削って粉砕し、塩を入れた湯に加えて煮た後、器に入れて飲む、とあります。
宋代の点茶
唐の時代がお酒の時代であったならば、宋の時代はお茶の時代でした。皇帝の宣伝と奨励の下、茶を味わうことは宋代の文人生活においてますます重要な位置を占めるようになり、風雅な茶事の流行を大いに助長し、宋代の人々の茶の風俗を一層豊かで多彩なものにしました。
時には「闘茶」と称して、お茶の良し悪しを鑑定し、茶器の良否を競う遊びも行われました。飲み方も、緊圧茶の茶葉を粉末にし、茶碗に入れてお湯とかき混ぜるという、日本の抹茶のような方法が行われていました。このような習慣は、当時の学識ある儒者たちの冷静な論道の風尚と相まって、独特の宋朝士大夫の風格を形成しました。
明代のお茶入れ
明の時代になると、お茶は大変動の時代を迎え、貴族と富裕市民に限られていた喫茶の習慣が一般市民へと普及していきました。この時代、団茶はお茶本来のおいしさを損なっており、また、製造に手間がかかるという理由で、初代皇帝の洪武帝(朱元璋)は団茶禁止令を出し、貢葉茶にしました。その後、「散茶」が本格的に生産されるようになり、茶葉の主流が急変しました。さらに蒸し製法に代わり、釜炒り製法が一般的になりました。
唐や宋の時代には、茶葉を粉末にして飲む方法が定着していましたが、明代の人々はこの飲み方を「簡単で便利」と考えていました。